本ページでは、ISOコンサルタント三村聡がコンサルタントになるまでの道のりについて綴っています。

それは環境への関心から始まった

アポロの月着陸の年に生まれて

私が生まれたのは1969年。この年、人類が初めて月に降り立ったニュースで世界中が沸き立っていました。
しかし、人が宇宙へ目を向けたということは、地球に対して目をそむけることにもつながっていたのかもしれません。

1960年代は四日市喘息、イタイイタイ病(1961年)などの公害病が問題となり、レイチェル・カーソン「沈黙の春」が出版(1962年)された時代です。豊かな暮らしを誰もが夢見、明るい未来へと希望を抱く中で、環境・公害問題は、次第に地球に暗い影を落とし始めていました。

私が生まれた69年は東京都公害防止条例が公布された年。高度経済成長や東京オリンピックに誰もが浮かれ、敗戦から立ち直った日本の未来は、ただただ明るく美しいものに思えた時代ですが、その裏で人間の欲望や奢りで汚染された影がしのびよっていたのです。

一人旅での出会った田舎の記憶

私は、広島生まれの広島育ち。ヒロシマが日本のどの地名よりも世界的に有名だということを知ったのは大人になってからですが、ヒロシマと聞くと、多くの人が「原爆」を思い浮かべるようです。
といっても、子供の頃の私にとって「原爆ドーム」も「ヒバクシャ」も身近すぎてピンと来ませんでした。

また、広島と言えば、原爆ドームのほかにも「宮島、厳島神社」という世界遺産のある県です。
美しく雅な建造物と、暗く悲しい戦争の遺物、というまったく正反対の文化を誇るこの街で、私は育ちました。

6歳離れた姉と4歳離れた兄を持つ私は、小学校中学年くらいから兄弟で遊ぶということが少なくなってきました。そのせいか、一人でどこへでも行くようになり、中学生になると一人旅をして日本のあちこちをまわりました。自転車に乗ってユースホステルに泊まりながら、小旅行をするのが好きでした。

あるとき、鳥取県の小さな村で、梨を売っている店があったので、梨を買おうとしました。
「これください」
私が言うと、店のおばさんは、
「これは売り物じゃけえ、あげられんけど、ひとつでいいならあげるよ」
もちろん、私はお金を出して買うつもりで「ください」と言ったのですが、やせっぽちでぼろぼろの格好をした中学生を見て、おばさんはついそう考えてしまったのでしょう。田舎のおばさんの温かい対応は、その後もずっと私の心に残りました。
しかし、後に鳥取大学に入学した後、あのときの御礼を言おうと思ってその場所を訪ねると、既にその店はなかったのが残念でした。

登山、自然、そして環境への関心へ

高校に進学すると、旅の趣味の延長でワンダーフォーゲル部に入部しました。中国地方には大山をはじめとして美しい山々がたくさんあるので、ロッククライミングや沢登り、冬山登山などに挑戦しました。(というと、今のぽちゃぽちゃした体を見た人からは、とても信じられない、という顔をされますが)


最初は、自然に挑戦し、自然に親しむことが楽しみだったのですが、自然の中に入っていくと日本の山の現実が目に入ります。荒れた野原、折れたまま横倒しになった木々、間伐されない人工林。 朽ち果てるのをただ待っているだけのような自然に、何か釈然としないものを感じました。

前人未踏で手付かずの美しい自然、というのとはわけが違います。人が訪れ荒らした後、放置された自然は、簡単に元に戻りません。高校生だった私の目に、それは大きな矛盾として映りました。

同じ頃、NHKで「地球大紀行」という番組が放送されていました。当時は今ほど環境問題が取り沙汰されていなかった時代です。今では「常識」となっていることですが、地球のある地域の環境は、その地域だけに原因があるのではなく世界のあらゆる地域の環境が影響していることや、環境の悪化はあるひとつの時代や出来事が原因なのではなく、歴史が積もり積もっていった結果なのだということを、その番組は美しく正確な映像で映し出していました。

多感な時期にこのような経験をしたことから、私の中には「このままじゃいけない」という思いが次第に膨れ上がってきました。しかし、何をしていいのか分からぬまま、私は高校3年になり、将来の進路を決める時期に差し掛かりました。

1989年、私が進学を決めたのは、砂漠緑化などの独特な環境問題への取り組みで定評のある鳥取大学農学部でした。