本ページでは、ISOコンサルタント三村聡がコンサルタントになるまでの道のりについて綴っています。

地球サミットへの参加

大学時代の環境活動

鳥取大学へ入学した私。入学すると、どこの大学でもそうですが、サークルへの勧誘が行われます。
高校時代の延長でワンダーフォーゲル部に入部しようか、と考えていた私の目にひとつの看板が目にとまりました。 「グリー…なんとか」と書かれています。「グリーンピース」のような環境団体だろうか、とそのサークルの説明会に行ったところ、男性ばかりが集まっています。そのうち、彼らは歌を歌い始めました…。
あれ?何か違う…? そこは「グリークラブ」という男声合唱団だったのです・・・歌が非常に苦手な私は、あわてて部室を出ました。(苦手だが歌うこと自体は好きなので、一緒にカラオケに行った人は皆とても迷惑している…)

そんな感じで、結局私が入りたいサークルは見つからなかったので、自分でつくることにしました。
それが、「環境情報ネットワーク」です。

環境問題に関心のある学生は全国に沢山いるけれど、みんなばらばらに活動していて統一するところがない。そこで、互いに情報をやり取りすることで、さらに活動を広げられるのではないかと考え、私は全国の大学に手紙を書いて呼びかけました。今のようにインターネットなどない時代です。全国の学生から環境活動に関する新聞記事を郵送してもらい、それを編集し、おんぼろコピー機で印刷し、全国の学生の元に届ける。それは大変な作業でしたが、情報を正確に伝えることの大切さ、個々の情報では限界があるので連携しあうことの大切さを学びました。

地球サミットへの参加

「環境情報ネットワーク」での活動はマスコミの目にも止まり、私は数社の新聞社などから取材を受けました。

その縁もあって、1992年には、リオ・デ・ジャネイロで開催された地球サミットへ学生代表として参加することになりました。語学が苦手な私は、皆が話す言葉は理解できませんでしたが、環境問題にこんなに真剣に取り組んでいる人たちがいるのだということを改めて感じました。

それまで、環境問題というのは、企業だからできる、企業じゃないからできないと言う単純な発想でしか考えられていませんでした。環境運動は、市民運動家や企業のイメージアップのために、行われていた帰来がありました。
また、日本には公害対策法はありましたが、環境基本法はありませんでした。日本という国は、問題が起きてはじめて処理を考えるという傾向にありますが、当時からそうでした。

しかし、世界はとっくにこういった問題をクリアしていたのです。環境保護ではなく保全を行うための対策を考える段階に入っていました。環境に配慮した経営は、公害対策のような「負の要因」をなくすためではなく、企業の信念として当たり前のことなのです。企業としてすべきことも、市民として取り組むのと同じことで、程度の違いはあれ、目指す方向に向かって進む仕組みを作らなければならなりません。

当時はまだ、環境問題に取り組むさまざまな組織、団体、個人の「共通の言葉」というものがありませんでした。
しかし、この地球サミットにおいて、同じ感覚、同じ概念でどんな活動をすべきかを話し合えるツールとして、マネジメントシステムを構築しなければならないということが決まったのです。これが後のISO14001となります。

ISO14001が第一歩を踏み出したその場所に、私はいました。私のISOへの取り組みは、1992年のリオ・デ・ジャネイロで始まったといっても過言ではありません。ISO14001が誕生したのは1996年ですから、その4年前に私の目指す道が見えたのです。

地域づくりの一員として

地球サミットへ行ったことがきっかけとなり、もっと視野を広げたいと考えるようになりました。
そこで、九州大学大学院農学研究科へ進学。離島、中山間地域などの条件不利地域での農業活性化、地域活性化を勉強しました。
地域の活性化や日本が抱える農業問題を研究する中で、問題のある地域にはいくつかの共通の傾向が見られることに気づきました。それは、「情報の欠如」「このままでいいという保守的な発想」です。

今でこそ、ようやく「トレーサビリティ」や「ラベル表示」など、生産者と消費者、または企業と顧客の双方が情報を共有できるシステムが出来上がりつつありますが、当時は生産者は自分で作ったものに対し、「後は野となれ山となれ」という状態でした。消費者も自分が食べるものなのに、その出所を知る手段はありませんでした。私自身も、この状態を何とかしなければいけない、と思いつつ、その解決法を模索している状態でした。

大学院修了後、すぐにISOの世界へ入ったわけではありません。私が就職したのは1995年のことで、まだISOのシステムは出来上がっていなかった、ということもありますが、当時の私は、農家や農村地帯の抱える問題に取り組むために、地域活性化という手段をつかって取り組もうと考えたのです。

そこで、大学時代から環境活動でお世話になっていた地域活性化のコンサルタント会社に就職しました。大学院へ残ったり公務員になる同級生が多い中、異色の選択でした。
しかし、いずれは独立したいと考えていた私にとって、こういったコンサルタント会社で下積み時代を送れるのは、願ってもないことでした。

私が主に従事したのは、行政を対象とした農村地域活性化や地域連携事業です。この会社では、環境、中山間地域問題のみならず、地方が抱えるあらゆる問題に取り組んでいました。

そのひとつが、都市と農村のパイプを作る取組です。「道の駅」といえば、聞いたことがある、もしくは実際に利用したことがあるという人が多いと思いますが、この道の駅を考案したのも、この会社でした。また、農業関係では、農村の女性支援事業としてグリーンツーリズムや農産物直売所の企画立案などに携わりました。